ロングインタビュー 代表取締役/橋満克文

アールアールジェイの誕生秘話

幼少期から高校時代

『友情』なんて言葉が描かれている漫画に見向きもしなかった少年時代。

私は1974年の大阪市寝屋川市で生まれました。ちょうどベビーブームがピークを迎えた翌年のことです。私の父はとても教育熱心な人で、百科事典や偉人伝など、さまざまな本を買い与えてくれました。そういう環境に育ったため僕はとにかく本が大好きで、いつも本ばかりを読んでいました。父は松下電器(現パナソニック)に勤めていたこともあり、子どもの頃から松下幸之助の本も大量に本棚にあったので、そんな本を読んでいたような、ちょっと変わった子どもだったんです。まだまだ夢見がちだった小学1~2年生の頃。僕はテレビのイランイラク戦争のニュースを見て、父にこう問いかけたことがあります。「戦争はもう、日本では起きないよね?」と。すると父から、「そんなことはない。戦争はまた日本で起きる可能性もあるし、世界では今も戦争が起きている」という衝撃的な答えが返ってきました。僕は驚きました。「今の平和な暮らしが、これから先も続くとは限らないんだ…」と。これまで、漠然と未来の幸せを信じていた僕は、価値観が崩壊してしまったんです。そして、本の中で描かれていることが物語ではなくて現実であり、努力して夢を叶える人もいれば、志半ばで死んでしまう人もいる、ということが分かってきた。小学低学年のときに僕は急に「いつまで経っても子どものままじゃだめだ」と、大人の感覚に引き上げられたんですね。

当時の子どもたちは少年漫画に夢中でしたが、僕は全然興味がありませんでした。「友情パワーなんてないし、架空の話じゃん」と思ってしまっていたんです。それよりも、「自分が危機に陥ったときに、どう対処するか?をとにかく勉強し続けないといけない」となぜか焦っていた記憶があります。

そんなことを思っていた折、近所に大きな本屋さんがオープンするんです。当時の本屋は立ち読みし放題で、僕は毎日のようにそこに通って、本を読み漁っていました。そのときに大河ドラマや歴史の本を好んで見るようになったんです。その中で、銀河英雄伝説に出会います。ある日、友人と本屋で遊んでいたときに、「お前、この本読んだことある?」と手渡されたのが銀河英雄伝説でした。「俺は二巻で読みたくなくなったけど、面白いで」と言葉を添えて。この作品は、歴史的な発想で描かれるシーンが多く、非常に面白く、夢中になって読みました。そして、僕もやはり二巻で子供ながらにショックを受けたのを覚えています。とは言え、当時の読書能力では内容の半分も理解出来てなかったのですが・・・。

父の口癖は、「松下電器に就職しなさい」。

父の子ども時代は極度に貧乏だったこともあり、僕は小さな頃から「とにかく勉強をしろ、大手の企業に入りなさい」と言われ続けていました。「松下電器に入れ、とてもいい会社だから」と。耳にタコができるくらい言われていたので、この話をされると「またか…」と思いつつも、「働いている社員にそういう風に言ってもらえる会社っていいなぁ」とも思ったんですよね。

大手企業に入るためには、いい大学に入らなければならない。勉強をしなければいけない。そんな父の教えから小学生の頃から、塾に通わされていました。でもお恥ずかしながら、勉強がまるでダメで。何度先生に教えてもらっても、理解できないんですよね。

“1/3+1/3+1/3=1”が、どうしても分からない。

小学生時代の橋満(左)。弟(右)と親戚(中)と (小学生時代の橋満(左)。弟(右)と親戚(中)と)

塾の先生が「1/3+1/3+1/3の答えは1です」と言うけれど、僕にはそれが分からない。だって、1/3って0.3333…なんですよ。それを3つ足したら0.9999…じゃないですか。1じゃないのに答えが1になる。これが僕は理解できなかったんですね。ケーキやリンゴに例えてもらっても分からない。茎とか芯はどちらに入るのか?とか屁理屈をこねていたんです。そもそも、何でもキレイに分け合えることって、世の中にそうそうないんじゃないか、と小さいながらに思っていたんです。嫌味なく理屈っぽかったんですね(笑)。分からないから教えてほしかったけれど、先生に聞いてもちゃんと答えてくれない。「そういう風に暗記しなさい」と言われちゃって、数学は暗記のものだと思い込んでしまったんです。最初にそこでつまずいてしまったこともあって、学生時代は算数・数学が全くできませんでした。どれくらいできなかったというと、センター試験の数学では、“200満点中4点”だったほど。自分の数学の最終到達点がここかと思うと情けない気持ちもありましたが、電卓使えば何とかなるとか漠然と思っていました。

兎にも角にも幼少期から、学校で学ぶ勉強に対して疑問を抱え続けていたので、「あまり勉強って楽しくないな」とずっと思い続けていましたし、成績も伸びませんでした。でも小学生時代は、友人にたくさん出会えたことが大きな収穫だったかもしれません。僕の人生に影響を与えてくれた人物は、3名。

実は僕は、小学校で(給食で余った牛乳の)牛乳一気飲みのチャンピオンとして名を馳せていました(笑)。机の上に牛乳を5本並べて一気に飲む。その学年一位だったんですね(笑)。そこで熾烈な戦いをしていたのが、かぼちゃとあだ名された人物でした。かぼちゃは体が小さな僕と対照的に体も頭も、性格も大きな人物。だからかぼちゃアタマなのでかぼちゃ。僕が初めて人生で憧れた同年代の人物です。彼は小学校5年で転校するのですが、転校する直前の最終戦は、未だにどちらが勝利したのか決着がついていません。

もう一人は、僕とゲームをしたり漫画を描いたりしていた双子の兄弟。彼の家には非常に教育熱心な母親がいて彼の家にも本が沢山あり、更には共働きだったからかも知れませんが遊ぶものもたくさんあって、テレビゲームをよくやりに行っていました。双子だったこともあるので、兄とも弟とも遊んでいたので学生時代は特に関わり合いの深い人物でした。また、後に兄には僕が浪人生となったとき非常に助けられることになります。

最後は、塾で出会った友人。その塾は男性は僕を入れて2名、女性も2名という小さな塾でした。もう一人の男子と自然と仲良くなったのですが、その友達が「きまぐれオレンジロード」というマンガが大好きでコレクションしていたんです。その彼がどうしても家族旅行で発売当日にその漫画が買えないので彼の代わりに「きまぐれオレンジロード」を買っておいてくれとお願いされたことがありまして、その思い出が今でも強く残っています。彼はそもそも校区が違ったので学校で会うこともなかったですし、小学校の卒業を待たずに塾をやめてしまったので、それからめっきり会わなくなりました。

分厚いカバンで校内で有名人に。反骨精神が爆発した中学時代。

校区の違いで、きまぐれオレンジロードと、かぼちゃと、僕は、別々の中学に通うことになりました。きまぐれオレンジロードとは塾を卒業したときに、「中学が変わっても一緒に頑張ろうね」と言っていたのですが、中学に入るとバタッと付き合いがなくなります。

僕は10中、カボチャは6中、きまぐれオレンジロードは1中に分かれました。そして、少し経つと、この3つの学校で抗争が始まりました。そういう時代だったんです。僕も否応なく巻き込まれました。隣の中学が攻めてきたときに、集団の中を見てみると、知った顔が。なんと、きまぐれオレンジロードが、一番強い番長になっていたんですね。会うのは2~3年ぶりのこと。だけど顔を見たらすぐに分かる。僕がこっそり手を振ると、彼は僕の顔を見て、「シーーーーッ!」という仕草をするんですよ。「俺のあだ名は絶対言うなや」みたいな感じで(笑)。そのとき以来、彼の束ねる中学に絡まれても、彼の名前を出すと常に解放されていました。何もやられることなく、逃れられたんですね。

そしてまた別の中学が攻めてきました。番長を見たら、なんと、かぼちゃなんですよ。彼は成績がすごく良くて、ド真面目なやつからド不良なやつまで含めて、かぼちゃのことは悪く言う人がいない。どんなことがあっても、彼はみんなを仲良くさせてしまう不思議な力があり、彼が番長になるのも不思議ではありませんでした。
声をかけたら「おう!橋満」と笑顔。僕含め周囲が勝手に乗り込んできたと思い込んでいたのですがカボチャは懐かしい友達の居る僕らの中学と自分の中学の喧嘩の仲裁に来ただけだったんですよ。

僕の中学にも番長みたいな人がいました。その人には、入学して1か月くらいで絡まれることになります。その理由は、僕の“カバン”。僕らの時代は、カバンを薄くするのがカッコいいという文化があったんですよね。みんなカバンを薄くすることに必死。先生たちはカバンを薄くする生徒に対して注意していたので、それなら僕はカバンを分厚くしよう、と思い立ちます。「人と違うことをしたい」という思いと同時に、先生への反抗心もあったんですね。小学生の頃、僕の疑問に対してちゃんと答えてもらえなかったこともあって、擦れていたのかもしれません。

カバンが分厚かったら、先生は僕を注意できないんです。むしろ先生は「橋満の鞄には夢が詰まっている」なんてことまで言われてしまう始末。けれども内心は「そもそもが薄いのはダメで太いのはOKなんてのはおかしい」と思っていました。僕がやっていることは、あほみたいなことなんですが、「先生たちのルールの中で、戦ってやろう」と勝手に思っていたんでしょうね。そんな変わったことしていたら何人か僕に賛同してくれる人も出てきた。その結果、中学校の番長に絡まれてしまったんですが、最終的には「あいつ変なことをしているけど面白いやつやな」と仲良くしてもらえるようになりました。僕の中学時代はこういう風に、人とは違う発想を持つようにして戦いつつ、コネクションでなんとか泳ぎ切った時代なんです。

弊社に中学時代からの同級生が勤めていますが、彼と出会ったことも大きなことだったのかもしれません。中学時代の友人についてもたくさん書きたいことがあるのですが本筋から逸れますので割愛。

将来は会社を立ち上げたい、と思ったのも中学2年生くらいのことです。その頃から強烈に、「自分にしかできないことって何だろう」「自分の個性って何だろう」ということをずっと考え続けてきました。とはいえ、考えても答えは分からない。当時、尾崎豊とかX JAPANとかTHE BLUE HEARTSが僕らの音楽シーンを席巻しましたが、「ああいう風にはなれないな…」と思ったんですよ。あの頃の中学生というのは、大体みんな「ミュージシャンになりたい!」と言うんですが、僕はなれないなと思った。でもTHE BLUE HEARTSの甲本ヒロトの、「楽器がなくてもロックはできる」という言葉に感銘を受けたんです。音楽ができなくても、歌えなくても、ロックって生き様にできるんだな、と。中学時代で忘れられないのは、卒業式のことです。卒業式に番長が学校を占拠するんですよ。ラジカセで尾崎豊とかBOOWYとか、当時流行っていた音楽をかけて、学校を占拠して、「俺らは帰らん」という態度を取って。先生たちは「しょうがないな」という顔をして同じ音楽を聞いていました。僕はそれを見て、とても嬉しかったんです。同級生だけじゃなく、先生が笑って見ているのを見て。そのときになんとなく、「ああそうか。先生って敵ばっかりじゃないんだな」とふと悟った。生徒たちにやらせてあげたくても、社会のルールとか、学校のルールの中で、やっぱりできないことがある、ということを先生が教えてくれていたんだ、と。だから単に反対するだけじゃだめだなと、そのときに教えてもらったんですね。後から振り返ってみても、これが社会というものを教えてもらった瞬間かなと思います。

そして中学での抗争を経験して、世の中で戦っていくためには腕力だけじゃない「何か」があるなとそのときに感じたんですよね。社会ではルールにのっとればケンカができるんだ、ということに後々、自分で気づくことになります。

高校で柔道部に入部。体が小さくても、勝てる道は必ずある。

高校時代の卒業アルバムより (高校時代の卒業アルバムより)

高校に入ると、僕は柔道部に入部しました。僕は体が小さくて腕力もない。太っても60~65キロの間くらい。そんな人間が、120キロの人間と畳の上で戦うんですよ。中学時代に、「腕力だけじゃない勝ち方がある」と思っていましたが、フィジカルな面ではどうしたって勝つことはできない。じゃあ、僕はどうやって世間で渡っていったらいいのか?を考えたときに、勝ち方って投げるだけじゃなくて避ける、という方法もあるんじゃないかなと思ったんですね。“戦わない”という道もあるな、って。この発想に至ったのは、やはり銀河英雄伝説です。主人公のヤン・ウェンリーが勝てないときは逃げるという戦術思想に影響を受けた部分が大きいです。

柔道には乱取りという、みんなで投げ合う練習があります。僕は体重が軽いこともあって、とにかくみんなにバンバン投げられたんです。だけど、投げられても瞬時に立つようにしました。大体太っている人って動きが鈍いので、投げた後はゆっくりしたいんですよ。でも僕は投げられても、すぐに立つ。なので、「あいつとやりたくない」ってみんなに嫌がられるようになります。そして、僕と組みたいという人は、いなくなったんですよ。「橋満とやるとしんどい。すぐ立ってくるから」と。そのとき、「やったー!」と思いましたね(笑)。さらに寝技で決めれば勝てることもあったので、自分なりの勝ち方を見つけて、「柔道って面白いな」と思い始めました。

柔道部の強制退部。塾通い。そしてクラスでの孤立。

しかし父によって部活は辞めさせられます。「柔道をやっていても、大手企業には入れない。部活を辞めて予備校に入りなさい」と言われてしまって。そして強制的に退部となり、塾通いの日々が始まりました。化学、生物、数学など、小学校から苦手だった“計算で成り立っている勉強”が多かったので、ほとんどついていけませんでした。偏差値は40を切るくらいでしたね。

学校に行ってもまともに勉強せず、途中から放棄していました。その代わり、友達と遊ぶことには熱中していました。でも高2のときは仲間がいっぱいいたのですが、高3になったら理系と文系でクラスが分かれてしまった。友達はほとんど理系に行き、僕は文系に行かざるを得ませんでした。
小学生時代からの友人である双子の弟と同じクラスになったのが唯一の救いなんですが、周囲が彼に意地悪を始めてしまうんです。あえて割愛しますがちょっとした抗争がありまして、僕はクラスで孤立します。気の合う友達もあまりおらず、仲間が一人もいない状態で高3を過ごすことになります。ほとんど学校に行かなかったんですよ。出席日数の3分の2が遅刻。化学の先生とケンカして、試験を受けなかったこともあります。

そんな中でも、唯一僕の味方になってくれた先生が高校三年の担任です。その先生がこっそり僕に「橋満は、自分で自らの人生を切り拓いていく能力がある」言ってくれたんです。その言葉を心の支えにして卒業しましたが、ただやっぱり世間は楽ではありませんでした。僕の辛く大変な浪人生活がそこから始まります。

浪人・大学時代から就職活動編へ

浪人・大学時代から就職活動

次は、浪人時代から大学時代、そして就職するまでのお話になります。

浪人生活のスタート。世間から全否定される気持ちを味わった不合格。

結局僕はニ浪して、大学に合格します。一年目の浪人はまだ反抗期。「大手企業に勤めるために大学に行け」と言い続ける父に反発し、「自分は大手企業に入らない」「そもそも自分は起業をする」と思い込んでいるので、勉強は一切しませんでした。父の引いたレールに乗せられると、後戻りができないから嫌だ、と言って。ろくに勉強もせず、ラジオばかり聞くようになりました。当然成績が伸びるわけもなく、一年目は全て不合格に。でもそのとき不思議と、「自分は生きる価値もない」と世間から自分を全否定されている気がしたんですよね。周りは真面目にやっている子たちばかり。みんな一年で受かっていきました。僕は偏差値も41~42くらいだし、ベビーブームの世代なので入れる大学がないんですよ。これはまずい。とにかく大学に受からないと、世間に対して自分を認めさせることにならないんじゃないかと思って焦りを感じました。

そのときに手を差し伸べてくれたのが、双子の友人兄。彼は、自分が通っていた予備校を僕に紹介してくれたんです。そこの入学式で教科書を受け取りにいったら、僕の名前を呼ぶ人がいたんです。「誰だろう?」と思って振り返ると、中学からの友達が偶然にもいて。頭のいい友達でしたが、彼も二浪しているということで、心の拠り所になったのは言うまでもありません。予備校時代、彼は友達としても戦友としてもいてくれたので、なんとか大学に入ることができたんです。補欠合格ではありましたが(笑)。

不登校気味だった高校時代とは打って変わり、大学ではほぼ皆勤賞。

僕が入学したのは龍谷大学。補欠合格でなんとかぎりぎりで滑り込むことができました。大学時代、僕は友達が2~3人しかできなかったんですよ。大学に入ってもまだ擦れたまんまなんです(笑)。僕は体質的にお酒を飲めなかったのですが、当時はお酒を飲めないと友達付き合いできないという風潮がありました。歓迎コンパとかあるじゃないですか。ああいうのばかりで。僕はお酒を飲んだら体調が悪くなる体質なので、お酒と一緒に友達を遠ざけてしまったんですよ。友達っていうのはそういうときに作るものなので、ずっとできなかったんですね。

サークルや部活には入りませんでしたが、ゼミはどうしても入らないといけない。僕が編入させられたゼミの先生は会社経営、幼稚園や保育所を経営している人で、世の中のことを色々と僕らに教えてくれました。ですが驚くことに、一回生の後期に先生が逮捕されたんです。職員の水増し請求などをして、ニュースになりました。それを知ったとき、中学校から続いていた先生に対する反抗心や不信感が復活してきたんですよね。

そして二回生になるタイミングで、次のゼミを選択することになりました。国際経済学の先生の授業が分かりやすくて面白かったので、先生のゼミに申し込むことに。ゼミのメンバーの発表があって僕は国際経済学のゼミに入れることになったんです。そこで授業が始まる前に先生に挨拶しにいかないといけないということで、友人と二人で挨拶に行きました。友人はものすごく成績がいい子。それを知っている先生が、「ああ、君が僕のゼミに入ってくれるのか!ありがとう」と言うんですよ。その後、僕を見て、「君も入りたいのか。入れてあげてもいいけど」とそっけなく言ったんです。ああ、これが学閥というやつか、と思いました。そして僕は、「それなら大丈夫です。ゼミに入らなくていいです」と言って帰りました。すると先生がすぐに追いかけてきて、「僕のゼミを辞めると言った人は、お前が初めてだ!」と言うんです。僕は「初めての人になれて光栄です」と言ってゼミを辞めてしまいました。そうなると面白いのがですね、噂を知ってか知らずか、周りの先生が僕を気に掛けてくれるようになったんですよ。

一人目の先生が、民際学を教えてくださった中村尚司教授。中村先生の授業を受けて、僕は大きな衝撃を受けたんですね。経済学の授業なのに、「地域が自立するためには」「コミュニティをいかに作っていくか」とか、「どうやってみんなで生き残っていくか」とか、そういう話を理論立てて説明してくれるんです。中でも印象的なエピソードがあって。それが、エビの頭の話です。僕らはエビの頭を食べなかったりするじゃないですか。でもエビを養殖している国、例えばタイとかベトナムとかの国の人たちは、エビの頭しか食べられないそうです。私たちはエビの身を食べられるけど、その国の人たちはエビの頭しか食べられない。この貧困の差はなんなのか?ということを教えてくれるんですよ。この先生は人権論も教えられていて、心というのはどこにあるのか?という学問をするんです。欧米の人たちはハートと言えば心臓のことを指しますが、中には心は脳にある人というもいるでしょう。経済学なのにこういう授業をしてくれるので、なんて面白いんだ、と。金融経済とか経済という枠から抜け出し、学ぶことが楽しいと感じた瞬間でした。授業だけでなく熱心に中村先生の著書を読んだりして、ものすごく勉強させてもらいました。その頃に学んだことは、今の経営でもすごく生きていますね。

もう一人が社会経済学を教えてくださった松岡利通教授。松岡先生は、授業で映画の話しかしないんですよ。実はマルクスやレーニンなど、ロシア・ソビエトの社会主義をテーマにした作品はたくさんあるんですね。それをベースに授業をするのですが、それがものすごく面白くって。僕はゼミがない分、映画を見る時間ができるんです。レンタルビデオ店の棚にあるアカデミー賞、カンヌ賞ものは全部見たので、松岡先生と映画の話をするようになるんですよ。最近見て面白かった映画の話をしたり、先生のお勧めを聞いたりとかして。

そして最後の一人が、日本史を教えてくださった中川洋子教授。僕はもともと歴史が大好きだったこともあって、中川先生の授業が楽しみで楽しみで。そして先生はちょくちょくネガティブな考えに捉われる僕を喫茶店に連れて行ってくれて、「橋満君はなんで友達がいないとか、そういうことばかり言うの?意外とみんな自分は友達が少ないなって思っているものだよ」と諭してくれたんです。高校の授業はほとんど出席していませんでしたが、大学の授業はものすごく面白くて、全ての授業に出ていましたね。

就職活動をさぼって図書館へ。そこで、ある人物のロックな生き様に出会う。

大学3年生になると、徐々にみんなが就職活動をし始めます。例によって僕は就職したくなかったので、なんとなく親には就職活動をしているような素振りを見せつつ、学校の図書館に籠るようになりました。そこで色々な本を読み、自分の興味ある分野の勉強を深めていたんです。龍谷大学は親鸞というお坊さんが経てた仏教の大学。僕は無宗教でしたし、そもそも僕は説教臭いことは好きじゃないと思っていたんですが、お釈迦様の時代を勉強してみるととても面白いものでした。

仏教の世界には、“善人”と“悪人”という考え方があります。“善人”というのは、お経を毎日しっかり読んで、肉も食べずに、奥さんもめとらずに、しかも莫大なお布施をしなければなりませんでした。仏教界に貢献をし、「あなたは正しい人間ですね」と周りに認めてもらうことが“善人”なんですよ。…と考えると、お金持ちの貴族ではないと“善人”にはなれないし、ほとんどの人が平民か農民でしたから、みんな“悪人”になってしまうんですよね。明日のご飯も食べられないような人たちが、どうやってお布施をするのでしょう?そこで、「悪人こそが正しいんだよ」「悪人こそが、救済の対象なんだ」という教えを説いたのが、親鸞なんです。これが悪人正機という思想なのですが、これを知ったときに僕は「これこそがロックだ!!」と目の覚める思いでした。

仏教の世界に、善人は肉を食べたらダメ、奥さんをめとったらダメという考え方があるにも関わらず、親鸞は全部やるんです。仏教界では相当影響力のある偉いお坊さんなのに、そういう立場の人がルールを破っている姿を見せることで、「みんな一緒だよ」ということを説いた。僕は信心みたいなものは全くないんですが、親鸞の生き様に触れたことで、また価値観がダイナミックに変わっていきました。ここから哲学など自分の興味のある勉強も深めていきます。

…とはいえ、働かないわけにもいきません。でもこんな風にこじらせた人間が、まともな会社にいけるわけないんですよ。そこで僕は、将来的には会社を起業したいので、元手を稼げる会社という基準で就職活動を始めました。

しかしながら、結局在学中には就職先が決まらず、卒業式に参加します。そのときに、わざわざ社会経済学の松岡先生が僕のところに来てくれて、「橋満君は、今後の進路ってどうされるんですか?」と聞くんです。「実はまだ決まっていないんです」と言うと、「そうだと思った」と。「ただ、君みたいな人間がどういう将来を生きていくのか、僕はすごく興味があるんです。道を決めたら必ず連絡をください」と言われました。卒業前に勇気をいただき、頑張らなければという気持ちになったのを覚えています。後日談ですが、起業した後にご連絡したところ、先生は僕のことを覚えていてくださり、起業の道を選んだことをとても喜んでくださいました。
「君ならそうすると思っていたよ」と。

浪人時代から大学時代、そして就職するまで 初就職から起業までへ

初就職から起業まで

最後は、就職から転職、起業に至るまでのお話です。

手取り50万円の仕事。入社3ヵ月でチームメンバーは10人以上に。

小さな頃から父に「大手企業で働け」と言われていましたが、父への反抗心もありつつ、迷った末に父に黙って松下電器だけに応募してみました。結果は、書類選考で不採用。その結果を聞いて、父が「どうして言わなかったのか」と言いましたが、「父に一生頭が上がらなくなるのは嫌だったから」と返したら、父は黙って「そうか」と納得してくれました。

新卒で就いた仕事は、教材販売の仕事。いわゆるキャッチセールスです。大学の校門前に行って学生にアンケートを書いてもらい、300万円くらいする教材を売りつける仕事なんですよ。当時僕はモノの価値があまり分かっていなかったので、そういうものかなと思っていましたが、今考えると学生にローン組ませるのはちょっと違ったかなと思います。売れば売るほどインセンティブがもらえるので、僕はガンガン頑張りました。手取りは月50万円ほど。入社して2ヵ月で、営業成績が全国10位以内になり、チームメンバーが10人以上になりました。

僕は“嫌がる人には売らない”というルールを必ず守っていました。ただ周りのスタッフを見ていると、学生をあの手この手で帰らせないようにしているように思えました。そういうのを見ていて、だんだんと疑問を感じるようになるんです。就業時間は11時から20時までにも関わらず、朝の8時から会議があって、夜は終電を逃すまで働いていました。当時は初めての会社ということもあって気づきませんでしたが、本当にブラックな会社ですよね。

実際に働いて実感した、ブラック企業のブラックな仕組み。

その会社では、ゼロハリバートンというジュラルミンのカバンを絶対に買わないといけないルールがありました。定価で7~8万円もする高価なカバンです。買わなければいけないのはしょうがないので、僕は梅田ロフトで値切って半額で購入しました。現品でいいので、という話で。「安く買えて良かった」と意気揚々と社に帰るも、「半額で買うなんて、やる気がない証拠や!何を考えてんねん!」と上司に一喝されます。

さらに上司からは「いい時計を買え」と言われ、タグ・ホイヤーの時計を買わされそうになったこともあります。要するに、稼がせるけど、お金を使わせるんです。お金を貯めたら社員は辞めていってしまうので、お金を貯めさせないようにするんですね。さらに社内では全員参加の営業コンテストがありました。参加費として一人3万円を支払い、それが優勝賞金になるんです。さらに営業コンテストの上位入賞者にしか参加できない勉強会やセミナーもあり、その参加費はなんと10万円。ランキング上位に入賞した人は賞金がバンッと入ってくるのですが、それを使わせるために、セミナーに参加させる…という仕組みです。

僕がお金を稼ぎたいのには、起業の元手にしたいという理由の他に、もう一つ理由がありました。実は父がギャンブル好きで、パチンコで身を傾けた人間。母の医療費にもお金が掛かっていたので、月20万円ほどは生活費や医療費として実家に入れていたんです。ですので、疑問を感じる瞬間は多々ありましたが、お金を稼げてはいたので少し我慢していました。

でもあるとき、上位入賞者向け合宿セミナーを休日に開催することが決まったんです。要するに、お金を使わせるだけでなく、休みの日まで拘束して勉強させられる。ちょっとこれはどうかと思い、休日にやる気のある人間が働くのはいいけど、社員に強制するのはおかしいんじゃないですか、と社長に直談判をしに行ったら、社長が全く理解してくれなかったんです。当時僕には20人の部下がいましたが、一ヵ月経つ頃には、メンバーが半分以下になっていました。とにかく人が残らない会社で、「これだけ人が辞めているのに、まだ休みも働けと言うんですか?」と伝えるも、社長は会社というのはそういうものだ、人が辞めても補充すればいい、と思っているんです。社長との価値観の違いに愕然として、結局この仕事はすぐに辞めてしまいました。それが入社3~4ヵ月の間で起きたことなんですよ。

ソフトウェア会社で、“やりたいこと”の第一歩を経験させてもらった。

数ヵ月で会社を辞めた新卒ですから、もちろん手に職はありません。そこから一年半くらい就職できない時期が続きました。ちょうどiモードなどが出てきた頃で、漠然と携帯系のWebシステムを作りたいと思っていたのですが、やりたいことはあるものの経験がないため、どこにも就職できない状態だったんです。バイトはしていたものの親には非常に迷惑を掛けていました。時間だけは大量にあったので本を読んだり、映画をレンタルしたり。アニメの銀河英雄伝説を見ることができたのもこの頃でした。

その後、東邦システム株式会社という小さなソフトウェア会社から内定をもらうことができました。当時の光山太祐社長(現会長)に僕のやりたいことについて話をしたら、「君のやりたいことをやってもいいよ」と言ってくれたんです。僕はここで、あべのベルタ商店街(現:あべのハルカス)の紹介モバイルサイトを作りました。あとは、小学生の頃から好きだった銀河英雄伝説のアニメ待ち受けサイトを企画したりもしましたね。

この会社では、東芝テックの事務用コンピュータ「帳作」の販売事業と、自社サービス事業という両軸を展開していたのですが、どうしても前者の事業のほうが利益率は高く、事業を一本に絞ることになりました。当時の社長からはありがたいことに、「橋満君、やりたいことができなくなるなら、辞めてもいいよ」と言っていただけたので、少し残念な気持ちはありましたが、2回目の転職に踏み切ることにしました。

大阪から東京へ。渋谷のベンチャーに囲まれ、刺激的な毎日を過ごす。

次に入ったのは、富士通ビジネスシステム(現・富士通マーケティング)でした。この会社は、自社のWebシステムを展開している会社です。応募要項上では大阪勤務でしたが、蓋を開けてみたら東京勤務になりました。生まれ育った土地を離れることに戸惑いましたが、「このまま大阪にいても…」という気持ちもありましたし、「会社を起業するなら、確かに東京だろうな」という思いもあったので、東京に出ることを決心しました。

富士通ビジネスシステムに入社してすぐ、富士通が出資するベンチャー投資会社・ビートレンドに出向となりました。僕は富士通の人間として、渋谷のサンブリッジという企業内にあるビートレンドにて、サンブリッジのベンチャー企業の皆様と一緒にWebマーケティングシステムの企画やセールス、Webシステムや広告なども担当していたんです。当時の渋谷には、ベンチャー企業がひしめき合っていて、色んな会社が立ち上がっては潰れていった。その様子を肌で見ることもでき、ものすごく刺激を受けたんですよね。

ところが数年後に、富士通ビジネスシステムがWeb事業を撤退するんです。“富士通ビジネスシステム”という名前くらいなので、業務系システムの開発がメイン。僕は業務系の仕事をあまり理解していなかったので、自分の実力を発揮できそうもありませんでした。そのときたまたま運よく、親会社への出向の話を耳にするんです。

富士通で働くことで、父の言葉の意味を実感。

親会社への出向は、10人の選抜メンバーのみ。僕はその中に運よく入れてもらえたんですね。そこでは富士通の社員として、地上波デジタル放送のインフラ構築や番組表システム(EPG)の基礎を作りました。リモコンの番組表ボタンを押したら、番組表がパッと出てくる、あのシステムです。地デジ化をするため、全国津々浦々の放送局を周らせていただいたりもしました。貴重なプロジェクトに参加できることが光栄で、日々楽しんで取り組んでいました。この仕事はいわゆる、富士通のメーカーとしての営業です。商品に対するこだわりや、サービスの耐久性など、トータルにお客様に提案していく中で、子会社・グループ会社・協力会社との付き合い方なども学び、パートナーシップってこういうことなんだなと改めて教えてもらえる機会もありました。

今だから言えますが、子会社勤務の時代は、勤怠カードを切ってから働いてくれというのはザラ。これは僕にとって相当ストレスでした。残業代が少なくなるのは仕送りも出来なくなるので死活問題でした。一方親会社である富士通は、さすが親会社ということもあって、サービス残業は一切ありません。会社の中に病院があり、保険制度なども充実していたので、従業員をしっかり守っているんだなというのを肌で実感していたんです。そのとき父の「松下電器はいい会社だ」という言葉と富士通がオーバーラップして、「大手企業はいい会社なんだな」と思ったんですね。

「こういう会社にいられるんだったら、一生いてもいいかな」と思っていたのですが、結局3年ほど経って子会社に戻ってくることになりました。親会社のいいところをたくさん味わってきたので、子会社に戻ってきたらやっぱり働きにくさを感じてしまうんです。当たり前のようにサービス残業になりましたし、仕事の仕方も全然違った。会社を辞めようという決め手になったのは上司ですね。思い通りにならないと周りに怒りを爆発させるタイプの人で、僕は灰皿を投げられたりもしたんですよ。親会社は働きやすいけど、子会社は働きにくい。これって何なのかな?結局は社会の構造ってそういうものなのかな?と思うようになり…。これは自分の目指すべき場所ではなくなってしまったと感じ、退職することになりました。

次は、もともと自分がやりたかった自社のWebシステム開発ができるシステム会社に入社しましたが、「夢を叶えるならば他人に依存してはならない。自らの手でつかみ取らねければ」と、そのときに起業の覚悟を決めました。

よくよく考えたら銀河英雄伝説の主人公ラインハルトも類似のセリフを言っておりましてここでも銀河英雄伝説は僕の人生に影響を与えてくれました。

紆余曲折あってたどり着いた起業。理想の会社を自らの手で作る覚悟。

僕が東京で働いている間、父はその頃会社を辞めて道楽三昧でした。その姿が目に余ったので、「自営業でもいいから仕事をしてくれ」と頼み、実家で自営業を始めるんです。父は車を運転するのが好きだったので、介護タクシーを。母親と弟は、たこ焼き屋を経営し始めました。僕も会社を辞めた合間を見て、大阪と東京で行き来しながら、たこ焼き屋の店長的なことをした時期もありました。

当時、携帯キャリアにモバイルシステムの企画を通すには2年以上続く法人格を持っていないとだめだったんです。自分が戦うフィールドはモバイルと決めていましたので、会社をゼロから立ち上げるのであれば、今ある会社の法人格を使ったほうがいいということで、社名を変えて2006年に株式会社アールアールジェイが誕生しました。それとほぼ同時に介護タクシーとたこ焼き屋も撤退。システム開発会社へと大きく舵を切りました。

実は起業するまで、僕は実家に仕送りを続けていたのですが、あるとき病気の母が「仕送はいらん。自分で稼ぐから」と言い出したんです。僕の夢を応援したかったんでしょうね。なんと母は道で缶を拾って、くず鉄屋に持って行ってお金に換えていた。満足いくほど稼げてはいなかったでしょうし、親にそんなことをさせてしまったことが、唯一の後悔ではあります。しかし、ようやく起業へ辿り着くことができ、僕は感無量でした。ここまで来るのに、本当に色々な紆余曲折がありましたが、全ての経験が今につながっていると感じています。

憧れの社長を目指すため、起業するときに固く誓ったこと。

憧れの社長を目指すため、起業するときに固く誓ったこと。

学生時代、そして会社員時代、自分がやられて嫌だったことはやらない、というのがアールアールジェイの基本的な経営方針になりました。

社名の由来は、浪人一年目のときの思い出が元になっています。友達がピックアップトラックを手に入れたので、毎週土曜日の深夜は仲間とドライブをしていました。そのときに仲間と決めたルールは、東西南北の方向だけ決めて、海が見えるまで走る、というルール。車の中ではロックンロールを流していたので、そのドライブを“ロックンロールジャーニー”と名付け遊んでいました。あの青春時代の思い出と、ロックこそが僕の原点だという思いから、頭文字を取って社名に掲げることに決めたんです。(こんなことを毎週していたので大学に受かるわけもありませんでした・・・。)

会社の経営理念として掲げたのは、“共存共栄”という言葉です。これはお互いに敵対することなく助け合って生存し、ともに栄えることを指します。この理念は実は、松下電器の経営理念でもあります。僕は小さな頃から、松下幸之助さんの本を熟読していたこともあって、松下幸之助さんの考え方は僕の原点になっているんです。僕が現役経営者で最も尊敬している人物は、松下電器産業機器の大谷昌三社長。松下幸之助さんの伝承者であり、父親経由ではありましたが自分の経営エッセンスを若輩者の僕に分け与えてくださいました。

いつのことだったか定かではありませんが、大谷社長の写真が見たいと父に話したとき、30名くらいの集合写真を見せてくれました。父に「大谷社長はどの人か当ててごらん」と言われ、僕が何度か指をさしても当てることができませんでした。大谷社長は写真の隅のほうにおり、全く偉そうに見えず、「この人が大谷社長なの!?」と大変驚いたことを思い出します。父曰く、「大谷社長というのは、ふんぞり返ってはいない。だから知らない人には、この人が社長であるとは分からない。従業員に紛れても分からないような人だ」と話してくれました。従業員こそが会社の主役であるという考えのもと、従業員に対しても敬語で話をし、社長として目立つようなことはしない。そんな大谷社長の姿は銀河英雄伝説に出てくるヤン・ウェンリーと重なり、大谷社長は自分の目標とする人物となっています。

長きにわたって起業までの話を読んでくださり、どうもありがとうございました。この記事を通じて、アールアールジェイの成り立ちや、僕が人生で大切にしたいことを、少しでも知っていただけたら嬉しく思います。あくまで起業は終わりではなく、スタートライン。実はこの先も、たくさんの紆余曲折が待ち受けていました。そのお話は、また追ってできれば、と思っています。

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